先日のお稽古で、先生にこう言われました。
「小田切さん、その枝、もう一度戻せますか」
はさみを入れる直前でした。
5センチほど切り詰めるつもりで、もう指に力を入れていたところです。
その一言で手が止まり、次の瞬間に頭へ浮かんだのは花器ではなく、診療室のユニットに座っている患者さんの顔でした。
はじめまして。
東京都文京区で「おだぎり歯科クリニック」を開いております、歯科医師の小田切陽子と申します。
1995年に歯学部を卒業してから、勤務医時代を含めて30年ほど、人のお口の中をのぞき込んで暮らしてきました。
そのかたわら、20年近く生け花のお稽古に通っています。
はじめは、まったく別の世界のことだと思っていました。
花と歯です。
どう考えても接点はなさそうでした。
ところが40代の半ばあたりから、稽古場で言われることと診療室で私が考えていることが、妙に重なるようになってきたのです。
この記事では、その重なりを5つの角度から書いてみます。
専門用語はほとんど使いません。
歯医者はどうも苦手、という方にこそ読んでいただけたらうれしいです。
切ったものは、二度と戻らない
「その枝、もう一度戻せますか」
生け花のお稽古で最初に体に入るのは、技術ではありません。
切ったら終わり、という感覚です。
枝は一度落とせば、つなぎ直せません。
少し短いかな、と思うくらいで止めておいて、あとから足りなければまた考える。
先生がおっしゃっていたのは、そういうことでした。
はじめのころの私は逆でした。
思い切りよく切って形を決めるほうが、上手に見えると思っていたのです。
ずいぶん多くの枝を無駄にしました。
削った歯は、生えてこない
歯もまったく同じです。
削ったエナメル質や象牙質は、二度と元には戻りません。
入れ歯やセラミックがどれだけ進歩しても、自分の歯そのものを再生させる技術は、まだ実用にはなっていません。
2000年前後から、国際歯科連盟(FDI)を中心に「ミニマルインターベンション」という考え方が世界の歯科で共有されるようになりました。
日本語にすると、最小限の介入です。
虫歯の部分だけをできるだけ小さく取り除き、健康な部分は残す。
神経もできる限り取らない。
昔は、虫歯の周りを予防的に広く削っておくのが標準的なやり方でした。
私が学生だったころの教科書にも、そう書いてありました。
その常識が、この30年でずいぶん変わったのです。
「今日は削りません」と言うとき
ですから私は、初診の方に「今日は削りません」と申し上げることがよくあります。
穴があいていない初期の虫歯なら、フッ素と歯みがきの見直しで進行が止まる場合があります。
黒い点があっても、硬く固まっていて広がっていなければ、様子を見るという選択肢が成り立ちます。
「せっかく来たのに何もしてくれなかった」という顔をされることも、正直に申し上げるとあります。
でも私は、あの日の枝のことを思い出すのです。
迷ったときは、切らない。
その判断が、10年後の患者さんの歯を残します。
土台が整っていなければ、花は立たない
剣山と水揚げという、見えない仕事
生け花で一番地味な作業は、生ける前にあります。
剣山を器のどこに置くか、水はどれくらい張るか、枝の切り口を水の中で切り直して水を吸わせる「水揚げ」をきちんとするか。
このあたりを手抜きすると、その場ではきれいに見えても、翌朝には花が首を垂れています。
見えないところの仕事が、見えるところの寿命を決める。
稽古場で覚えたことの中で、これが一番診療に効いています。
歯を支えているのは、歯ぐきと骨
お口の中でいうと、剣山にあたるのは歯ぐきと、その下にある骨です。
歯は骨に埋まって支えられています。
歯周病というのは、この支えが少しずつ溶けていく病気です。
歯ぐきが腫れたままの状態で、上にきれいな被せ物を入れたらどうなるか。
数年で土台が下がり、被せ物の境目が黒く見えてきます。
歯そのものがぐらつき始めることもあります。
厚生労働省のe-ヘルスネットにある歯周病の予防と治療でも、毎日の歯みがきと定期的な歯石除去が予防の基本だと説明されています。
派手さのない話です。
それでも、ここを飛ばして先に進んだ治療が長持ちした例を、私は見たことがありません。
順番を守るという説明の難しさ
「前歯を白くしたい」というご希望でいらした方に、まず歯ぐきの治療から始めましょうとお伝えするのは、なかなか勇気がいります。
遠回りに感じられるからです。
そんなとき私は、水揚げの話をします。
花瓶に挿す前に水を吸わせておかないと、その日のうちにしおれるんですよ、と。
余白があるから、花は美しく見える
詰め込んだ花は、かえって貧相になる
初心者がやりがちな失敗は、花を入れすぎることです。
私も通い始めた年は、器いっぱいに枝を挿しては、先生に半分抜かれていました。
抜かれた瞬間、残った花が急に生き生きして見えるのです。
花と花のあいだにある何もない空間が、花そのものを引き立てている。
生け花では、この空間を大事な要素として扱います。
歯と歯のあいだにも、余白がいる
お口の中にも、同じことがあります。
歯と歯が接する場所には、本来ごくわずかな形の余裕があります。
歯の側面はまっすぐな板ではなく、少しふくらんだ曲面をしていて、歯ぐきに近いほうへ向かってなだらかに隙間が広がっているのです。
この形があるおかげで、歯間ブラシやフロスが通り、汚れが留まりにくくなります。
治療でこの形を無視すると、日々の掃除がしにくい場所ができあがります。
診療室で余白を意識しているのは、たとえば次のようなところです。
- 詰め物と隣の歯が接する面の丸みと、その下の広がり
- 被せ物のふちと歯ぐきの境目の位置
- 上下の歯が噛み合ったときの、わずかな逃げ道
- 歯を並べ替えるときに残しておく、動かせる余地
「隙間ができた」と言われたとき
歯周病の治療が進むと、腫れが引いて歯ぐきが引き締まります。
すると、それまで隠れていた歯と歯のあいだが見えるようになり、「隙間ができた」と驚かれることがあります。
あれは歯が痩せたのではなく、炎症で膨らんでいたものが元の姿に戻っただけです。
このときも私は、生け花の話を持ち出します。
すかすかに見える一瞬を過ぎると、そこから長持ちが始まるのです。
同じ花は、ひとつもない
池坊が大切にしてきた「出生の美」
いけばなが今のかたちに整えられたのは室町時代で、京都の六角堂にいた池坊の僧たちが中心でした。
16世紀のはじめに池坊専応が理論をまとめ、ただ美しい花を愛でるのではなく、草木の性質をわきまえて自然の姿を器の上に表す、という考え方を示しています。
このあたりの流れは、池坊のいけばなの歴史に詳しく載っています。
池坊には「出生(しゅっしょう)」という言葉があります。
その草木がそれぞれに持っている特徴、いわば個性のことです。
江戸中期に確立した生花(しょうか)という様式では、1種類から3種類ほどの花材だけを使い、その草木が懸命に生きている姿の美しさに焦点を当てます。
虫に食われた葉も、枯れた枝も、そこに命の現れがあれば使う。
はじめてそう習ったとき、私は少しほっとしました。
教科書どおりに治らない口がある
歯科の教科書には、標準的な手順が書かれています。
けれど診療室に来られるのは、教科書ではなく人です。
顎の骨の硬さも、唾液の量も、歯ぎしりの強さも、食事の好みも、通える頻度も、みなさん違います。
右の奥歯だけで噛む癖が20年続いた方のお口は、左右で摩耗の具合がはっきり違います。
同じ「奥歯の虫歯」でも、その方にとっての最善は変わってきます。
理想の噛み合わせに近づけることが、いつも正解とはかぎりません。
70代の方が20年かけて作り上げた噛み方を、正しい形に矯正しようとして、かえって不調を招くこともあるのです。
だから、話を聞く時間がいる
初診の方には、少し長めにお話を伺います。
どこが痛いかだけでなく、いつごろから、どんなときに、何を食べていて気になったのか。
生け花で、枝をあちこちから眺めてから向きを決めるのと同じ感覚です。
その枝が一番その枝らしく見える角度は、正面から見ているだけではわかりません。
お口の中も同じで、レントゲンだけ見て決めた治療計画は、たいてい途中で修正が入ります。
生けた日が、ゴールではない
水を替え、切り戻し、また向き合う
生けた花は、翌日から手入れが始まります。
水を替え、傷んだ葉を取り、切り口を少し詰め直す。
きちんと世話をすれば、季節にもよりますが2週間ほど楽しめる花もあります。
いくら上手に生けても、放っておけば3日でだめになります。
生けた瞬間が完成ではなく、そこからの毎日が本体なのだと、今は思っています。
治療の終わりは、管理の始まり
歯科もそっくりです。
被せ物が入った日を「治療完了」と呼びますが、あれは花を生け終えた日にすぎません。
歯周病は再発しやすい病気で、治療後に定期的な管理をしないと細菌がまた増え、噛み合わせも年月とともに変わっていきます。
そこで数か月に一度、状態のチェックと専門的な清掃を受けていただく。
これをメインテナンスと呼びます。
定期的にいらっしゃる方のお口で、私たちが見ているのはこのあたりです。
- 歯ぐきの腫れや出血の有無、歯周ポケットの深さ
- 被せ物や詰め物のふちのすり減り、境目の変化
- 噛み合わせのずれ、歯ぎしりによる摩耗の進み方
- 磨き残しが出やすくなった場所と、その原因
80歳で20本、という目標
1989年に始まった8020運動は、80歳で自分の歯を20本残そうという呼びかけです。
始まった当時、達成できていた方は1割にも届きませんでした。
厚生労働省が2025年に公表した令和6年歯科疾患実態調査では、この8020達成者が61.5%と推計されています。
前回の令和4年調査では51.6%でしたから、大きく伸びました。
この数字を押し上げたのは、劇的な新技術ではないと私は思っています。
削りすぎない判断、土台を整える手順、掃除しやすい形、その人に合わせた計画、そして続く手入れ。
どれも地味な積み重ねです。
まとめ
生け花と歯科治療の重なりを、あらためて並べてみます。
| 生け花で言われること | 診療室で起きていること |
|---|---|
| 切った枝は戻らない | 削った歯は再生しない |
| 剣山を据え、水を揚げる | 歯ぐきと骨の状態を先に整える |
| 余白が花を引き立てる | 掃除できる隙間と噛み合わせの逃げ道を残す |
| 草木それぞれの出生を生かす | その人の噛み方や生活に合わせて計画を立てる |
| 生けた日から手入れが始まる | 治療完了はメインテナンスの開始点 |
こうして書き出してみると、我ながら少し出来すぎた話に見えます。
たまたま両方をやっていたから、後づけで結びつけているだけかもしれません。
そこは自分でも疑っています。
それでも、お稽古で手が止まったあの瞬間の感覚は本物でした。
はさみを入れる前に一拍おく癖は、確実に診療のほうにも移っています。
もし今、歯の治療を受けるかどうかで迷っている方がいらしたら、ひとつだけお伝えしたいことがあります。
すぐに削らない歯医者は、やる気がないわけではありません。
戻せないものを扱っているから、慎重になっているのです。
次の予約の前に、鏡でご自分の歯ぐきを見てみてください。
色が赤みがかっていないか、歯と歯のあいだが腫れぼったくないか。
それだけでも、担当の歯科医と話す材料になります。