朝の診療室には、まだ誰もいない時間があります。
患者さんの声も、治療器具の音もなく、受付の照明だけが静かについている時間。
私はこの時間が、けっこう好きです。
文京区で「おだぎり歯科クリニック」を開いている、小田切陽子です。
開業してから20年近くになりますが、朝の空気だけは、いまでも少し背筋が伸びます。
「歯医者さんって、診療時間の前は何をしているんですか」
患者さんから、そんなふうに聞かれることがあります。
診療台に座っていると、歯科医院の仕事は「口の中を見る時間」だけに見えるかもしれません。
でも実際には、診療が始まる前から、その日の準備は少しずつ動いています。
カルテを見返し、器具を確認し、スタッフと打ち合わせをして、昨日の気がかりももう一度思い出す。
今日は、開業医の1日を少しだけお見せします。
特別な話ではありません。
むしろ、毎日くり返している地味なことばかりです。
でも、その地味な積み重ねが、患者さんに安心して診療台へ座っていただくための土台になっています。
目次
朝の診療室は、準備の音から始まります
いちばん早い仕事は、今日来る方の顔を思い浮かべること
私の朝は、だいたい診療開始の1時間ほど前から本格的に動きます。
医院に着いたら、まず窓を開け、空気を入れ替えます。
季節によっては、ここで少しだけ外の匂いが入ってきます。
春は土の匂い、梅雨どきは湿った空気、冬はつんと冷たい朝。
白衣に着替えたら、その日の予約表を確認します。
ただ名前を追うだけではありません。
前回どんなお話をしたか、痛みは落ち着いていたか、麻酔が苦手な方だったか、治療説明で少し不安そうな顔をされていなかったか。
そういう小さなことを思い出します。
たとえば、朝いちばんに小学生のお子さんが来る日。
前回、診療台に上がるまで少し時間がかかった子なら、今日は無理に急がせない流れを考えます。
お母さんが「学校に遅れないか心配で」とおっしゃっていたなら、受付にも声をかけておきます。
歯の状態だけを見ているようで、実はその人の朝も一緒に診ています。
そこを忘れないようにしたいのです。
器具と材料の確認は、静かな安全確認です
診療室では、スタッフが器具の準備を進めています。
歯科医院の朝は、見た目よりずっと細かい確認が多いものです。
治療内容によって必要な器具は違います。
詰め物の調整、歯石取り、根の治療、入れ歯の修理、抜歯の準備。
同じ「歯科治療」でも、使う器具も、材料も、診療台のまわりに置くものも変わります。
朝の段階で確認していることは、たとえばこんなものです。
- 今日使う器具がそろっているか
- 滅菌や消毒の工程に抜けがないか
- 予約内容と準備している材料が合っているか
- レントゲン画像や紹介状など、必要な資料をすぐ見られるか
- 車いすやベビーカーの方が来る時間帯に、動線を確保できているか
こうして書くと事務的に見えますが、実際にはかなり大事です。
治療中に「あれが足りない」となると、患者さんは不安になります。
こちらも焦ります。
焦りは、診療室に出ます。
だから朝のうちに、できるだけ焦りの芽を摘んでおく。
これは開業してから、ずっと大切にしていることです。
スタッフとの短い会話で、その日の流れが決まります
朝礼というほど大げさではありませんが、診療前にスタッフと短く話す時間があります。
予約の混み具合、急患が入る可能性、説明に時間を取りたい方、体調に配慮が必要な方。
数分でも、この共有があると一日がずいぶん違います。
歯科医院は、歯科医師だけでは回りません。
受付、歯科衛生士、歯科助手、それぞれが少しずつ違う角度から患者さんを見ています。
受付での声の調子、待合室での表情、診療台に座ったときの手の力。
私が気づかないことを、スタッフがそっと教えてくれることもあります。
「先生、前回かなり緊張されていました」
「今日はお薬手帳を持ってきてくださっています」
「午後の患者さん、杖を使われるので診療室まで少しゆっくりご案内します」
こういう一言に、何度も助けられてきました。
チームで診ている、という感覚です。
午前の診療は、体も頭もよく使います
朝いちばんの患者さんには、こちらの空気が伝わります
午前の診療が始まると、診療室の空気は一気に動きます。
受付の電話が鳴り、玄関のドアが開き、診療台のライトがつく。
そこからは、時間が流れるのが早いです。
朝いちばんの患者さんは、こちらの状態をよく感じ取られます。
こちらが慌ただしいと、患者さんも少し身構えます。
反対に、落ち着いて「おはようございます」と迎えられると、診療台に座る肩の力が少し抜ける。
不思議ですが、本当にそうです。
私が朝の準備を大切にしているのは、そのためでもあります。
歯科治療は、ただでさえ緊張しやすいものです。
音もしますし、水も出ますし、口を開けたまま話しにくい。
だから、せめて最初の数十秒はやわらかくしたい。
「今日はどんな感じですか」
「前回のあと、痛みは出ませんでしたか」
「麻酔はゆっくり進めますね」
言葉は短くてかまいません。
患者さんが「ちゃんと覚えていてくれた」と感じられること。
診療は、そこから始まっています。
歯だけでなく、生活の変化も診ています
午前中は、定期健診やクリーニングの方、治療の続きの方、急に痛みが出た方が混ざります。
同じ時間帯に見えても、必要な対応はまったく違います。
日本歯科医師会の歯科健診を定期的に受けようでも、むし歯や歯ぐきの確認、ブラッシング指導、歯石除去、口の中の粘膜のチェックなど、健診で行う内容が紹介されています。
定期健診は「何もなければ終わり」ではありません。
何もなさそうに見える時期に、変化の小さな芽を拾う時間です。
診療室では、歯だけを見ているようで、生活の変化も見ています。
最近、介護が始まって歯みがきの時間が短くなった方。
仕事が忙しくなり、夜中に甘い飲み物を飲むようになった方。
薬が増えて口が乾きやすくなった方。
お子さんの仕上げみがきが、下の子の誕生で少し難しくなったご家庭。
こうした変化は、口の中に出ます。
歯ぐきの腫れ方、磨き残しの場所、詰め物のまわりの汚れ方。
小さなサインですが、毎日見ていると見逃せないものがあります。
患者さんに「最近、何か生活が変わりましたか」と聞くと、最初は少し驚かれることがあります。
でも、口は生活と切り離せません。
朝ごはん、間食、眠り、薬、ストレス。
みんな口の中につながっています。
説明は、短くても伝わる形にします
歯科医師の仕事には、治療だけでなく保健指導も含まれます。
日本歯科医師会の歯科医師の任務・定義・義務にも、歯科医療や保健指導を通して健康な生活を支える役割が示されています。
ただ、診療台の上で長い説明を聞くのは、患者さんにとってなかなか大変です。
口を開けたあとで疲れていることもあります。
麻酔が効いていると、早く帰りたい気持ちにもなります。
だから説明は、できるだけ生活に置き換えます。
専門用語だけで押し切らない。
「この歯の根元は、歯ブラシの毛先が入りにくい場所です」
「ここは糸ようじのほうが届きやすいです」
「今日全部覚えなくて大丈夫です。まず夜だけやってみましょう」
患者さんの顔を見ながら、言葉の量を調整します。
たくさん話せば親切、というわけではありません。
その日に持ち帰れる量があります。
昼休みは、休むだけでは終わりません
カルテを書きながら、午前中をもう一度たどります
午前の診療が終わると、ほっとします。
正直に言うと、お腹も空きます。
朝からずっと集中しているので、昼休みの最初の一口はとてもありがたいです。
ただ、昼休みは完全に休みだけでは終わりません。
午前中のカルテを確認し、必要な記録を整えます。
次回の治療内容、患者さんに説明したこと、痛みの有無、薬の確認、次に気をつける点。
診療中にメモしていても、落ち着いて見返す時間は必要です。
私にとってカルテは、ただの記録ではありません。
次にその方を迎えるための手紙のような面があります。
前回どんな表情で帰られたか。
説明に納得されていたか。
次回、最初に何を確認すべきか。
もちろん、記録として正確であることが第一です。
でも、その奥に人がいます。
そこを忘れないように書いています。
技工物や紹介状の確認も、この時間に進めます
昼の時間には、被せ物や入れ歯など、技工物の確認をすることもあります。
色は合っているか、形に違和感はないか、患者さんが気にしていた部分が反映されているか。
模型を手に取りながら、午後の診療を思い浮かべます。
紹介状や返書を書くこともあります。
親知らずの抜歯を口腔外科へお願いする場合、全身の病気が関係する場合、医科の先生と情報を共有したほうがよい場合。
歯科医院の中だけで完結しないことも、日常的にあります。
歯科医師の業務は、むし歯の処置や詰め物、入れ歯、矯正、抜歯など幅広いものです。
日本歯科医師会の歯科医師の業務にも、治療や健康管理、口腔領域の病気まで含めて説明されています。
実際の診療でも、口の中だけを小さく切り取って終わり、とはなかなかいきません。
「この患者さんは、どこまで当院で診て、どこから専門の先生にお願いするか」
開業医として、その判断はとても大切です。
何でも自分で抱え込まない。
患者さんにとってよい道を選ぶために、手放す勇気も必要です。
ほんの少しの休憩が、午後の診療を支えます
昼休みには、なるべく温かいお茶を飲むようにしています。
和菓子をひとつ添えることもあります。
大げさな習慣ではありませんが、私にはちょうどいい切り替えです。
生け花をしていると、花の向きや水の量を見ながら「今日はここまで」と決める場面があります。
診療も少し似ています。
ずっと力を入れっぱなしでは、手元も心も固くなります。
午後も、患者さんは不安や痛みを抱えて来られます。
こちらが疲れた顔で迎えてしまうと、それだけで申し訳ない。
だから短い休憩でも、ちゃんと休む。
開業してから覚えた、大事な仕事のひとつです。
午後は、説明と判断が増える時間です
学校帰り、仕事帰り、付き添いの方も増えてきます
午後になると、医院の雰囲気が少し変わります。
学校帰りのお子さん、仕事の合間に急いで来る方、親御さんの付き添いで来るご家族。
午前とは違う生活の音が入ってきます。
夕方近くなると、患者さんも少し疲れています。
こちらも一日の後半です。
こういう時間帯ほど、説明を急がないようにしています。
たとえば、抜歯や神経の治療、自費診療の相談。
すぐに決めなくてもよいものは、いったん持ち帰っていただくことがあります。
ご家族と相談したい方もいますし、費用のことを落ち着いて考えたい方もいます。
診療室では、つい「今日決めなければ」と思ってしまう方が多いです。
でも、急ぐ必要がある治療と、考える時間を取れる治療は違います。
そこはきちんと分けてお伝えしたいところです。
受付での会話にも、診療の続きがあります
治療が終わったあと、患者さんは受付で次回の予約を取ります。
この時間にも、実は大切な情報が出てきます。
「次は仕事が忙しい時期なので、少し先でも大丈夫ですか」
「家族に説明したいので、今日の内容を書いた紙はありますか」
「麻酔が切れたあと、食事はどうしたらいいですか」
診療台では聞けなかったことが、受付で出ることがあります。
横になってライトを当てられていると、なかなか言葉が出ませんよね。
私も患者さんの立場なら、きっとそうです。
日本歯科医師会のかかりつけの歯医者さんをつくろうでは、分からないことは質問することや、体の状態を事前に知らせることが紹介されています。
これは本当にその通りで、質問してくださるほど、こちらもその方に合った診療を組み立てやすくなります。
受付で出た小さな疑問は、スタッフから私に戻ってきます。
必要ならもう一度お呼びして説明します。
時間は少しかかります。
でも、帰り道の不安を減らせるなら、その数分は惜しくありません。
急患対応は、予定通りにいかない日の練習でもあります
開業医の一日は、予約表どおりに進むとは限りません。
急に歯が痛くなった方、詰め物が取れた方、入れ歯が割れて食事に困っている方。
電話の向こうで、声が震えていることもあります。
もちろん、すべてをすぐ診られるわけではありません。
予約の患者さんを長くお待たせするわけにもいきません。
それでも、痛みが強い方には応急処置だけでも入れられないか、スタッフと相談します。
この判断は、いつも簡単ではありません。
予定していた治療時間、患者さんの痛み、スタッフの動き、器具の準備。
いくつものことを同時に見ます。
開業医になってから強く感じるのは、診療技術だけでは医院は回らないということです。
時間の使い方、伝え方、待っていただくときの一言。
そういう小さな運営の判断も、患者さんの安心につながります。
診療後の仕事が、そのまま明日の準備になります
片づけは、今日を終えるためだけではありません
最後の患者さんをお見送りしても、一日はまだ終わりません。
診療室の片づけ、器具の処理、翌日の準備、カルテの確認。
夕方以降の歯科医院は、また別の顔になります。
診療台を整えながら、今日のことをスタッフと少し話します。
説明が足りなかった方はいなかったか。
次回、もう一度確認したほうがよいことはないか。
器具や材料で補充が必要なものはないか。
この時間は、反省会というより、明日のための整え直しです。
毎日完璧にはいきません。
予約が押してしまった日もあります。
説明に時間がかかり、次の方をお待たせしてしまうこともあります。
だからこそ、終わったあとにそのままにしない。
小さな引っかかりを、できるだけ翌日に持ち越さないようにします。
学び直しも、開業医の仕事です
診療後や休診日には、勉強会の資料を読んだり、新しい材料の情報を確認したりします。
歯科医師になったら勉強が終わる、ということはありません。
むしろ臨床に出てからのほうが、「知らないままではいられない」と感じる場面が増えます。
日本歯科医師会にも生涯研修に関するページがあります。
歯科医療は少しずつ変わります。
材料も、機器も、予防の考え方も、患者さんの暮らし方も変わっていきます。
昔うまくいっていた説明が、今の患者さんには合わないこともあります。
スマートフォンでたくさん調べてから来る方も増えました。
その情報が正しい場合もあれば、必要以上に怖くなっている場合もあります。
歯科医師として、古い経験だけに寄りかからない。
でも、流行だけで診療を変えない。
その間を見極めるために、学び直しは欠かせません。
家に帰る前に、明日の患者さんを少しだけ思います
医院を閉める前に、翌日の予約表を見ます。
明日は初診の方がいる。
久しぶりに来る方がいる。
前回、治療説明で少し迷っていた方もいる。
その確認をしてから、ようやく白衣を脱ぎます。
帰り道、夕飯の買い物を考えたり、和菓子の材料を思い出したりしながらも、ふと患者さんの顔が浮かぶことがあります。
長く開業していると、診療室の外まで少しだけ仕事がついてきます。
それを重荷だと思う日も、正直あります。
でも、患者さんの「噛めるようになりました」「痛みが引きました」「来てよかったです」という一言で、また明日も診療室を開けようと思えます。
歯科医の朝は早いです。
そして、夜も案外すぐには終わりません。
けれど、その一日の真ん中には、いつも患者さんの暮らしがあります。
開業医の1日を時間で見ると
実際の流れは、予約内容によって変わります
医院によって診療時間も体制も違います。
うちのクリニックでも、日によってかなり変わります。
それでも、ざっくり見ると、開業医の一日は次のような流れです。
| 時間帯 | 主な仕事 | 気をつけていること |
|---|---|---|
| 8時前後 | 出勤、換気、予約表とカルテの確認 | その日の患者さんの状態を思い出す |
| 診療前 | 器具・材料の準備、スタッフとの共有 | 治療内容と準備にずれがないか見る |
| 午前 | 定期健診、治療、急患対応 | 最初の説明を急がない |
| 昼 | カルテ整理、技工物や紹介状の確認、休憩 | 午後に集中力を残す |
| 午後 | 治療、相談、説明、家族対応 | 患者さんの疲れや不安を見る |
| 診療後 | 片づけ、翌日の準備、記録、学び直し | 今日の引っかかりを残しすぎない |
表にすると整って見えますが、実際はもっと行ったり来たりしています。
急患が入れば順番は変わりますし、説明に時間をかける日もあります。
予定通りにいかない日のほうが、むしろ多いかもしれません。
患者さんにお願いしたい、ほんの少しのこと
歯科医院の裏側を知っていただいたついでに、患者さんにお願いしたいことも少しだけ書かせてください。
難しいことではありません。
でも、この少しで診療がずいぶん進めやすくなります。
- 痛みや不安は、遠慮せず最初に話してください
- 飲んでいる薬がある方は、お薬手帳を持ってきてください
- 体調が悪い日や妊娠中の方は、受付でも診療室でも教えてください
- 分からない説明は、その場で聞き返して大丈夫です
- 治療後に気になることが出たら、自己判断で我慢しすぎないでください
日本歯科医師会の歯医者さんに行く前にでも、歯みがきや保険証類、お薬手帳の準備などが案内されています。
準備というと大げさですが、薬の情報ひとつで治療方針が変わることもあります。
患者さんが教えてくださる情報は、診療の助けになります。
「こんなことまで言っていいのかな」と思うことほど、案外こちらが知りたいことだったりします。
まとめ
開業医の1日は、診療時間だけでできているわけではありません。
朝のカルテ確認、器具の準備、スタッフとの共有、昼の記録、診療後の片づけと学び直し。
患者さんから見えないところで、小さな仕事がずっと続いています。
派手な場面はあまりありません。
でも、朝の準備がその日の安心につながり、昼の記録が次回の診療につながり、診療後の振り返りが明日の判断につながります。
歯科医院の一日は、そういう細い糸でつながっています。
患者さんにとって歯科医院は、できれば緊張せずに通いたい場所だと思います。
そのために、私たちは今日も少し早く来て、診療室を整えます。
明日の朝も、たぶん同じです。
窓を開けて、予約表を見て、患者さんの顔を思い浮かべる。
そこからまた、一日が始まります。